下町ロケットより凄い会社-三鷹光器-

mitaka
 直木賞を受賞した池井戸潤の「下町ロケット」は、町工場がロケットエンジンの燃料バルブを製造してしまうという小説である。
町工場の社長は、国からロケット打上げを任された帝国重工という会社を向こうにまわして一歩も引かない。技術を数億円で買おうという申入れを断って、燃料バルブを自分の工場で作りあげてしまう。
この町工場の技術でロケットが飛ぶという痛快な話で、プライドを持って頑張る町工場の人たちの物語は感動ものでもある。
良くできたフィクションで、本当にこんな会社があったら凄いなあ、と誰しも思う。
ところが、この小説の町工場より、何倍も凄い会社が実際にある。

 三鷹光器である。
三鷹光器の創業者中村義一氏は最初三鷹にある東京大学天文台に勤務し、天体望遠鏡等のメンテナンスを担当した。
そこで特異な才能を発揮し、独立して東京大学宇宙科学研究所(当時、以下東大宇宙研)が開発するロケットや観測バルーンに搭載する様々な観測装置を製作するようになった。
電離層までの大気に含まれる物質を探る装置や太陽を観測する装置などである。

 1978年、NASAのスペースシャトルに搭載する地上観測カメラを東大宇宙研が取りまとめることになった際、実績を買われて三鷹光器が候補メーカーに挙がったが、東芝と三菱電機も候補として名乗りを挙げたため、NASAと東大宇宙研は3社の製品を比較検証して最終決定することにした。
地上観測カメラは、カメラ本体、モーター、駆動機構等から成り、1m程度の長さになる。
使用環境が真空・極低温の宇宙空間なので、中に窒素が封入され、零下150℃でも作動することが条件である。
各社の試作品をNASAでテストした結果、大手2社のものは零下120℃になると、金属の収縮で駆動軸が締め付けられ動かなくなった。
また、ゴムパッキンが極低温でひび割れ窒素ガスが漏れ出してしまった。
三鷹光器のものは全体を筒状の金属容器で包み込み、ゴムは使用していないので、窒素ガスが漏れることはない。
また、駆動軸は円筒形でなく少しテーパーが取ってあるので(極端に言うと円錐形状)、金属が収縮すると軸が縦方向にずれ、締め付けられない構造になっている。零下160℃まで正常に作動した。
三鷹光器の地上観測カメラがスペースシャトルに搭載されたことで、同社の名が一躍知られるようになった。

 1986年の或る日ドイツ・ライカの副社長が三鷹光器を訪ねて来た。
ライカは脳外科手術用の顕微鏡を開発中だったが、市場は同じドイツのカール・ツァイスに独占されていた。
顕微鏡と言っても、手術ができるよう患部とレンズの間は離してある。患部を克明に拡大する必要があったが、手術中の様々な作業のために顕微鏡を動かす必要もあり、その度ごとに顕微鏡の焦点を合わせ直すのに時間がかかる。そこが未解決だった。
ライカが中村義一氏にアドバイスを求めると、「簡単だ。一度焦点を合わせたらロックし、焦点を変えないよう患部を中心に顕微鏡を円運動させるようにする。それができる軸をセットする機構にすれば良い。」と答えた。
三鷹光器はこのメカニズムによる脳外科手術用顕微鏡を完成させた。
そして、その製品をライカが販売・アフターサービスすることで提携がまとまった。
その後も次々と新しいアイデアを組み込んだ製品を開発、現在、世界中で三鷹光器の脳外科手術用顕微鏡が使われている。

 中村義一氏は、戦時中、国民学校高等科(今の中学校に当たる)の時に学徒動員で練習機の翼の製作をした。
他の生徒が飛行場の防空壕掘りをやらされる中、彼だけは飛行機関係の仕事を与えられ、翼製作の次は機体補修、そして最後はエンジン補修に回された。
戦後は食べるのに精一杯、高等科より上には進まなかった。16歳の時に、近所から残材を拾い集めて来て、自分で家を建てた。その家に実に40年間も住んだ。
やがて、機械や装置を作るようになった。いつも図面は書かずに、精密な機械が出来た。そして、1966年三鷹光器を創立した。(次回に続く