-第14回-虎は死して皮を留め、人は死して何を残すのか。

tsutsumikanban

死ぬ、ということは何なのだろう。虎は死して皮を留め、人は死して名を残す、というのが、戦国時代などで武士が戦場へ赴く心得として、定番の答であった。
死ぬことが日常茶飯事で人の命が羽のように軽く武士は何より名誉が重んじられる時代、このような考え方であっただろう。現代でも、地位や勲章にこだわる人もいるし、いじめや追いつめられた感情の結果がその人の存在を否定されたように感じ、それ以外の解決がないかのような思い込みに駆られて、死を選ぶという悲しい事件になることもある。
 
しかし、人は死んで、本当に何を残すのだろう。
「お金を残す」のが、一番だろうか。お金や有形無形の財産を残すことは、自然な行為のようではある。しかし、財産、お金を残せば残すほど相続争いの発生が目に見えるようだ。
私などは幸いにして、争いになるような資産は残せそうもないので、お金は便利で必要な道具ではあっても、生きる目的ではないよ、と安心して言うことができる。

「人を残す」。人が自分の遺伝子を伝えていこうとするために子を残すのは、どんな動物も自分の種族を残すために繁殖期になると猛烈な争奪戦をするのと同じ種類の行動であろう。
この意味において、子孫を残すということは、間違いなく大切な目的であるのに、子供を作らないのは、このような基本的な目的を感じないのだろうか。
人を残すことの「別の意味内容」としては、その人が自分の考えを伝えようとする人に対して教える場を作って育成することは、人を残すことではないだろうか。生前、独自な考えを持ち慕われていた人の思想を話し合う場を、研究会などの形で継続し、自然に団体となってその考えを伝えていくときに弟子たちが集まるのは、人を残すことではないだろうか。

そのように考えてくると、人というよりも「仕事を残す」ということがあるようだ。
ある人の人生の終わりに、継承させたい具体的な仕事・事業の形が考えられるのではないだろうか。それは、事業という財産を相続するというより、その事業の理念、何を達成しようとするのかという目的などが、「仕事」として残されていると考えるものかもしれない。
 住友家の家訓が住友系企業では伝承されていたり、トヨタ自動車の、もの作り技術にかける執念などは、「仕事」の意味や意義と共に伝承されているものと思う。

 このような著名な会社、有名な人物のケースでは無くても、それぞれの個人のレベルで考えてみると、それぞれの方が、それぞれの一生の中で大事にしていた「仕事や生き方」を近くの人に伝えそれが何らかの形で残る、ということになるのではないかとも思う。

 先年、会社の同期の友人が長い病気の末に亡くなり、家族葬とするのでとおっしゃったのだが、同期の仲間として家族の端っこに座らせてくださいとお願いして数人が参列した。
仲間が待ち合わせて町の葬儀場に入ると、その1室に導かれ、受付の会社員と思ったのは息子たちであったのだが、部屋の中に並べられた遺品、写真、等を案内してくれた。大変な読書家で読書メモを若い時から書いているのに感心、奥様に改めてお悔やみのご挨拶をし、お二人ですでに以前から準備していたお墓の写真を拝見した。
葬儀は、奥様のご挨拶、お孫さんの手紙、長男が挨拶の後、父がカラオケで歌うのを初めて聴いたという曲を金管楽器でしめやかに演奏され、終わった。仲間と帰りながら、改めて、故人の人柄を語り、いい家族に送られていい葬式だったなと話し合ったことである。

結局、亡くなった人と関係があり、心の通った人々の中に残るいろんな印象、考え方、
理論、理念、が人間の知恵の中に伝え残される、ということになるのではないだろうか。