高度経済成長の深層海流
団塊の世代が第一線から退き、次の世代は出口に足がかかり、その次の世代は順番待ちの状態で後に続いている。
企業社会では50歳をすぎれば、おおかた坂道を降りていく。かつてかじった上昇志向型ポジティブシンキングも、いまや用をなさないが、それでも血湧き肉躍る男のドラマは気分を駆りたてる。後半生に何を求めようと、誰しも心の灯火を絶やすわけにはいかない。
かつてNHKの「プロジェクトX」がヒットしたのも、「海賊と呼ばれた男」がベストセラーになっているのも、灯火に引火した現象だ。
とくに敗戦後から高度経済成長期という伸び代の大きい時代が舞台になれば、なお一層、灯火はあおられる。
伸び代の大きい時代は器の大きい人物を生み出す。時代は人をつくるのである。
「海賊と呼ばれた男」のモデルとなった出光佐三もそうだし、各界を彩った綺羅星のごとき人物が、伝記文学の主人公として記録された。
記録されていない傑物も数知れない。
鰹節業界にあっては、石田長二郎という傑出した経営者が燦然と輝いていた。
明治41年に新潟県で生まれた石田は、関東大震災の翌年に上京し、都内有数の富豪で鳴らしていた鰹節問屋の籾山商店に就職した。籾山商店は日本橋から江戸橋にかけての一画に店を構えていた。
現在は野村證券本社が建つ一画である。
やがて頭角を現わした石田は昭和16年に独立し、石田潮司郎商店を立ち上げた。その後、石田は昭和35年から55年まで東京鰹節類卸商業組合理事長を、昭和36年から55年まで全国組織の日本鰹節協会会長を務め、「カミソリ長さん」と言われた明晰な頭脳と強靭なリーダーシップで業界を率いた。まさに高度経済成長に時を得た人物である。
石田は平成11年に91年の生涯を閉じた。多くの功績を遺したが、なにより人を遺したことが最大の功績だった。
石田潮司郎商店には、鰹節生産地の鹿児島から生産者の子弟たちが入れ替わって修業に住み込み、台湾からも取引先の子弟が参じ、あるいは学業を終えた鹿児島の女子たちが行儀見習いに入った。
多くの若者が人生に励む職場は、いつしか「石田学校」と呼ばれるようになった。
石田潮司郎商店は現在「株式会社いし田」(東京都中央区)となって、三代目の石田勝巳氏に受け継がれている。この三代目もまた才覚を発揮し、新たな道を進んでいる。
高度経済成長期に日本の経済成長率は年率9%で伸び続けた。このエネルギーを支えた要因のひとつに、昭和36年に創設された国民皆保険制度を挙げなければならない。
「世界に冠たる」と形容されるこの制度は、日本を世界トップの長寿国に導いた原動力で、半世紀以上にわたって日本人の働きを健康面で支え続けた。
単純なことだが、経済史を飾るドラマの数々も、人々が健康に働くことができたから生まれたのである。
しかし、高度経済成長期は胸躍らせるだけの回顧の対象ではない。
公害問題や金権政治など今日まで尾を引いている深刻な病巣をつくり出した。それどころか、ブラック企業問題の遠因となる構造も、この時代に萌芽していたのだ。
それを政治学者の神島二郎氏が喝破している。以下に引用しよう。
「かつて私は、近代化の過程で崩壊していった自然村、これに対して擬似自然村を第一のムラに対する第二のムラとして問題提起した。
第二のムラの典型として私は県人会と学校の同窓会をあげ、のちにこれに戦友会を加えた。
第二次大戦後、戦後経済の混乱期に外地から引き揚げてくる人々を収容して企業は一種の会社コミューンとなり、それを経て勤め先共同体のようなものが出来た。
これには退職したOBも含まれる。それは自然村とはよほど違っている。
というのは、コミューン時代はともかく、それを経過した後はかつての残像を利用した収奪が始まったからである。さもなくば、猛烈社員や過労死など、ありようはずがない」(『回想 神島二郎』)
正も負も再生産されるのが歴史の連続性である。それは、団塊世代が全員75歳以上となる2025年の超高齢社会にむかって、何をどのように再生産していくだろうか。悲観的なシミュレーションは洪水のように発表されているが、それらが人々の深層心理に刷り込まれてしまうと、本当に悲観が現実になってしまう。高度経済成長モノに並ぶような明るい近未来物語がほしいものだ。
ハウステンボスを再建した澤田秀雄氏は、社長に就任した当時、社員に向かって「ウソでもいいから明るく振る舞おう」と呼びかけた。状況を好転させる名ゼリフである。