シニアのための時間の話

「なぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか」(ダウエ・ドラーイスマ著)を読んだ。脳生理学や認知科学や心理学の諸説を散りばめた面白い内容ではあるが、肝心の疑問に対する的を射た回答は載っていなかった。この命題は古くから人間共通の関心事であるが(特にシニアにとって)、まだ正解が無いようである。今回はこのテーマに迫ってみたい。

人は時間が経つのをどのように感じるのだろうか?
一般的学説では「嫌いなことをさせられている時、楽しくない時、退屈な時は時間が長く感じられ、楽しいことをしている時は時間が早く過ぎてしまったように感じられる」と言う。確かに、嫌なことをさせられている時は、何度も時計を見ながら時の経つのが遅く感じられるし、何かに夢中になっている時は時間を忘れていて、ふと気がつくと随分時間が経ってしまっていることがあるので、経験的実感と合っているように思える。
ひとたび、そうした時間が過ぎてしまうと「逆に前者は短かったように感じられ、後者は長かったように感じられる」とされている。その点も実際の経験や実感に照らして正しいように思える。
しかし、長い一日と感じ、後から振り返っても長く感じられることもある。例えば、海外旅行で列車を乗り継いで初めての土地に降り立ち、道を探しながら城の塔に登り、街のレストランで名物料理を食べ、さらに生演奏が聴ける店へ行って、そこで出会った外国人と飲んで話した一日は長く感じられるし、かつ後々も印象深かった一日として記憶に留められる。

時間は常時同じ速度で過ぎて行くが、人の脳が経過する時間量を計測・記録することはない。人の脳は印象深かった経験や事柄をすくい取ってエピソード記憶として貯える。その時の映像や心に刻まれた印象やストーリーが、年月や場所とともに記憶される。そうした記憶は、時系列ごとのファイルとして脳に収められる。
人が過去の年月を振り返る時は、年月を索引としてエピソード記憶を再生する。数多くの印象深い記憶に満ちた年月は長かったように感じられ、内容に乏しい年月は速く過ぎたように感じられる。心理学者は、エピソード記憶を「時間の標識」と称し、「時間の標識」の多寡が心理時間の遅速を決めると説明している。
海外旅行の一日は、時間を追ってエピソード記憶が積み重なって行くので、その時長い一日と感じ、かつ後からも長かった一日として記憶されると思われる。

心理学者は「なぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか」をエピソード記憶の多寡や密度で説明するので、「シニアになっても好奇心を持ち続け、新しいことにチャレンジし、経験領域を広げていると、時間が速く過ぎることはない」と言及する。
本当だろうか?
筆者はシニアになってから、スペイン語を習い始め、中南米を旅した。そこで少しだけ通じたスペイン語に気を良くして、戻ってからもスペイン語の勉強を続けた。スペイン語クラスを繰り返し受講し、語学仲間と交流した。スペインにも行った。この間3年を経過したが、感覚的にはもっとずっと長かったように感じられる。成長や変化があったので、実際の時間の経過以上に感じられたのではないか、と思う。その点は心理学者の説に合致している。
しかし、例えば大学を卒業し、就職して東京から地方に赴任した時のことを今も鮮明に覚えているが、あの時の記憶から今を思うと、あっという間に時が経ったような気がする。心理学で「望遠鏡効果」というらしいが、過去の鮮明な記憶が近時の出来事のように感じられ、その場合にはその間の年月が圧縮されて感じられるらしい。
スペイン語にまつわる記憶では長く感じられた人生が、古い昔の映像記憶を蘇らせると、あっという間に感じられるから不思議だ。それは30歳代にはなかった感覚で、60歳代にはよくある感覚に思える。過ぎ去った年月の違い、残された年月の違いが、そう感じさせるのかも知れない。過ぎ去った年月の二重性を強くかかえているのがシニアの特性のようでもある。

シニアには、残された時間を精一杯生きたいという気持ちが強い。可能な限り充実した時間を持とうとして、挑戦する気持ちを失わず活動する。そして急ぐ気持ちになる。
しかし、時間にとらわれた生活スタイルを離れ、何事もスローペースで気ままに自由に生きる生き方もある。世界20ヶ国以上でベストセラーになったカール・オノレイ著「スローライフ入門」には、時間にとらわれないゆったりした生き方に切り替えたことで、豊かな充実した人生を味わえるようになった事例が幾つも紹介されている。
次はある人からの伝聞である。
娘さんがアレルギーに悩み、ある時スリランカのアーユルベーダ(インドの自然療法)に参加したところ、日本では治せなかったしつこいアレルギーが軽快した。それで、ある夏2度目の参加をすることにした。父親は会社を退職していたので、娘と一緒に参加してみることにした。
ひなびた村に滞在し、先生の問診があって、施術のようなものも多少は受けた。植物の樹皮・葉・花などの成分を含んだオイルを体に塗ってマッサージを受ける類だ。その後はハーブの蒸し風呂とお湯で洗い流す。毎日ゆったりとヨガをした。食事も療法の一つになっている。何の課題もない時間帯が多く、田園を眺め、日陰で休み、風を感じて過ごした。すべてがゆっくり過ぎて、最初はイライラしたが、やがてそのペースに慣れ、心ゆくまでリラックスし、居心地良く過ごした。娘さんのアレルギーはさらに軽快したそうだ。
勤務していた頃は、いつも時間を気にし、時間に追われるような生活だった。今もその延長でいつも何かしていないと気が済まないが、急いで生きることを放棄した時、新たな世界が見つかるのかも知れない。