捕鯨と石油と電気
アメリカの作家ハーマン・メルヴィル(1819~1891)は、家が破産し少年時代から働き始めた。職を転々とし、債権者から逃れて夜逃げしたこともあった。20歳で船員となり、21歳で捕鯨船に乗り太平洋に出たが、船長の横暴と厳しい環境に嫌気しマルケサス諸島で脱走、タイピー族の部落に3週間身を隠していた。その後オーストラリアの捕鯨船に拾われタヒチへ行ったが、今度は乗組員の暴動に巻き込まれイギリス領事館に逮捕されてしまった。ここも脱走しエイメオ島に隠れていたが、アメリカの捕鯨船に乗ってハワイへ行き、そこでアメリカ海軍の水兵となって1844年に25歳で帰還した。4年間を太平洋で過ごしたことになる。
1846年島の部族との生活を書いた「タイピー」を発表し一躍人気作家となった。しかしその後は徐々に忘れ去られ、1851年の「白鯨」は全く評価されなかった。
当時のアメリカはメルヴィルのような冒険心に富んだ多くの若者を船員とし、世界一の捕鯨国を誇っていた。
1853年のペリー来航の目的の一つは、捕鯨船の水・薪・食料の基地確保であった。
鯨から大量の鯨油を取り、ランプの燃料や潤滑油として使った。肉も少しは食べたが、一般の食肉として普及はしなかった。
1867年アメリカ北東部のペンシルバニア州で、世界で初めて石油が機械掘りされた。石油はランプ燃料としての地位を鯨油(菜種油等)から瞬く間に奪った。1972年(明治5年)
にはスタンダードオイルの日本支店が出来ており、日本も直ぐに石油の洗礼を受けることとなった。
エジソンが電球を作ったのは1879年であるが、これも直ぐに日本に伝播し、1883年(明治16年)には東京電灯が、1888年(明治21年)には大阪電灯が相次いで設立された。
同じ頃、元津和野藩士の山辺丈夫(やまのべたけお)は旧藩主の養子のイギリス留学に随行し、ロンドン大学で経済学や保険を勉強していた。渋沢栄一は日本に繊維産業を興すことを念願し、山辺宛に紡績技術を修得して欲しいと出状、これを受けて山辺は直ちにキングズ・カレッジに転校して機械工学を学び、卒業後はマンチェスターの紡績工場で実地に働いてノウハウを獲得した。帰国後、1882年(明治15年)に大阪紡績(東洋紡の前身)を設立。当初、石油ランプ数百灯を使用し深夜まで作業継続していたが、頻繁に発火して危険な上非能率であったため、1886年(明治19年)に全て電球に交換し、24時間フル操業を採用した。そのお蔭でみるみる輸出を拡大、大阪紡績を筆頭とする日本の繊維産業は見事に離陸した。
実にエジソンが電球を作ってから7年後のことなのである。
文明と産業の黎明期を振り返って驚くのは、時代のダイナミックな変動と変化のスピードである。また、その時代に生きた人たちのスケールの大きさにも感嘆させられる。
ここには、現在の日本と日本人が学ぶこと、見倣うことが幾らもあるように思える。